永和印刷の歴史,前回から気がついたら2カ月以上間が空いてしまいました。
読んでいただいた人はもとより,書いた本人もすっかり忘れていて困りました。
戦後史の復習からやりなおしです…
1953(昭和28)年5月に発足し、現在地に工場も完成し印刷機や製版部も立ち上げた永和印刷だが、
当時の日本は戦後の混乱期から立ち直り経済界が上昇してきた時期だった。
1947~1949年は「団塊の世代」と呼ばれる第一次ベビーブームとなり、
1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発し日本は特需景気にわき、
1951(昭和26)年にはサンフランシスコ平和条約が締結され、翌年に日本は占領下から独立した。
もっとも特需景気の恩恵を受けたのは、金属・製糸関連業が主で、印刷業にはそれほど
及ばなかったらしい。
それでも戦時中のさまざまな統制が解除され、戦後当初は出版ブームで1948年には
4,581まで伸びていた出版社数が、1951年には1,881社にまで激減したものの、
角川文庫などの文庫本ブームや、新潮社の「現代世界文学全集」などの文学全集ブームを経て、
1953年に出版労働組合懇談会が誕生、独占禁止法が改正されて出版物に再販制度の適用が
決まった時期でもあり、まだまだ経済的には不安定で、各企業がデフレと合理化の中で
いろいろと模索する真っ只中であった。
ちなみに、漫画の神様 手塚治虫が宝塚から上京し、豊島区のトキワ荘に入居したのも1953年で、
力道山が柔道王・木村政彦とのタッグでシャープ兄弟と対戦したのが1954年2月、
テレビ時代の黎明期もこの時期に当たる。
永和印刷においては、設備、人員は充足したものの、すぐに工場がフル回転できるものではなく、
当時の会計名簿から資金繰りに苦しんだ様子がにじみ出ていると「永和印刷とともに三十年」
にも記載されている。
そうしたなか、徐々にではあるものの業績を伸ばしていき、1956(昭和31)年には久永の郷里
岡山県から3人の高校新卒者の入社(永和印刷で50年勤めた、永和の生き字引と呼ばれる(?)
片岡譲二郎氏もその1人)に伴い工場部分の2階に寮を増設することとなり、
8月には中馬のA全判ニ回転印刷機が増設された(下写真)。

写真には「見つめる社員たちの顔にも深い感慨があるようだ」とのコメントが添えられているが、
手前左は私が入社当時の工場長の藤井さん、右にいるのは校正ゲラの準備などをしていた
針谷さんと思われ、私自身にも懐かしさで深い感慨がある。
当時は活版印刷機の全盛期であることはすでに紹介したが、活版の文選の写真も紹介する。

こうして活字棚から活字を選んで、並べていく。
現在では、普通のパソコンでさまざまなフォントを自由自在の大きさで加工できるが、
当時はこんなふうに文字どおり「活字を拾っていた」。
松田哲夫 著『印刷に恋して』(晶文社)にわかりやすいイラストが掲載されているので引用する。


次回は昭和30年代以降の興隆期と、鋳造機について紹介する。
まだ昭和31年か…
年内の完結はムリですね。
焼け跡から再出発 永和印刷の歴史①
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